ミッドセンチュリーの頃、ニューヨーク、マンハッタンのインテリアデザインの世界で働いた日本人女性がいました。

ミッドセンチュリーモダンは1930年代以降に勃興し、その後アメリカ国内で認知を広げていきました。

その中で働き、当時の時代精神が醸成されていった頃の彼女のストーリーです。

 

いまから50年前、1962年のアメリカではソニーからトランジスタラジオが発売され、ヒット商品となった時期です。1945年の第二次大戦終戦から約15年、日本はまだ復興の途上にありました。

NYに着いたのは4月初め、その時期はまだとても寒く、体の芯が冷える様な気候でした。まずマンハッタン島の摩天楼の町並みに驚き、道幅の広い道路は整然としており、物は豊富、人々は闊達に町を行き交っていました。その頃ちょうどビートルズがNYにはじめてくるとの事で、町のあちらこちらのショーウィンドーにビートルズのLPレコードがならんでいたのが印象的でした。

当時の日本は食べる物が出回り始め、空腹は改善されていましたが為替は1ドル360円の時代。米国入国ビザの取得審査はとても厳しい物でした。

マンハッタン島の中心にあるデザイン学校で9ヶ月学んだ後、仕事を探してハーマンミラーNYショールームに勤める事が出来ました。ハーマンミラーの家具は工業製品で、多くの公共施設に使用されていました。その頃は米国内に大学、空港、新しいビルが沢山建設されていいて、それらの場所にハーマンミラーやノルの家具が納められていました。ショールームの中にはプランニングデパートメントという部署があり、そこが私の仕事場でした。

ショールームでは外回りのセールスマンが家具をおさめる場所の平面図を持ち帰ってきて、それにハーマンミラーの家具を配置しそのカラーコーディネートをボードにまとめます。セールスマンはそれを基にして見積書、計算書を作成し、アメリカ国内方々へ飛んでゆき商売をしていました。プランニングスタッフは5人ほどでしたが現場へ行く事はありませんでした。私も自分の描いたプランがどの様に出来上がっているのかを見る事はありませんでした。

その頃のハーマンミラーの家具はチャールズイームズ(Charles Eames)とジョージネルソン(George Nelson)がデザインし、ファブリックはアレキサンダージラード(Alexander Girard)がデザインしていました。他にはイサムノグチ(Isamu Noguchi)のガラステーブルが一点ありました。大まかですが家具の価格は3段階に分かれていて、同じ形式の配置が予算により使い分けが出来る様になっていました。セールスマンはその辺りを見定め、この平面図にこの家具を使って配置してほしいと注文があり、私はそれをまとめていました。

勤務時間は朝9時から5時までで昼食時には1時間の休みがあり、土日は休みでしたが、時間は厳しく管理されていました。

ショールームはマンハッタンのイーストサイドのレンガビルの中にあり、広いスペースには生産している家具のほとんど全てが見られる様になっていました。ただ、一般の人が見に来る事は無く、いつも静かなものでした。一般ではハーマンミラー、ノルの家具と云っても知られておらず建築家やデザイナーに知られている程度で、アメリカの一般的な家庭や事務所では安く、保守的なデザインの家具が使われました。NY周辺ではヨーロッパから入ってくるアンティークの家具、ルイ何世様式の家具など古い家具が一般的には人気がありました。

この仕事を辞め日本に帰る時、最後に嬉しくびっくりした事がありました。私の滞在ビザが当時働きながら勉強するビザで、帰国する際にそれ迄給料から支払っていた税金が全額戻ってきたのでした。当時の米国はおおらかでした。

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