松山の 伊丹十三 記念館 に行ってきました。

 

伊丹十三 が亡くなって22年になります。映画監督で知られた 伊丹十三 は、商業デザイナー、イラストレーター、俳優、エッセイスト、テレビマン、CM作家など、多彩な顔を持つ一種の天才肌の人物でした。

 

上に挙げた肩書以外にも、音楽愛好家、料理通、乗り物マニア、猫好き、精神分析啓蒙家など、その興味は広範囲に広がっていました。

 

映画『北京の55日』や『ロード・ジム』などに出演した国際俳優としての伊丹十三、テレビ番組『遠くへ行きたい』のレポーターとしての伊丹十三、味の素マヨネーズのテレビコマーシャルに出ていた伊丹十三などは、当時から知っていましたが、伊丹十三に瞠目させられ、本格的に傾倒していったきっかけは、そのエッセイでした。

 

1990年頃、真剣に料理をはじめた時期に出会ったのが、『ヨーロッパ退屈日記』(1965年)と『女たちよ!』(1968年)という伊丹十三が最初に書いた2冊のエッセイです。

 

伊丹十三

 

『ヨーロッパ退屈日記』は1963年に寿屋(現サントリー)が出していたPR誌『洋酒天国』に連載されていた原稿が元になっています。『洋酒天国』の発行人は開高健、編集者は山口瞳であり、この二人の著作に親しんでいたことが、伊丹十三の著作に手を伸ばした直接的なきっかけでした。

 

伊丹十三 は、正統、本物、正しさを愛し、まがい物、安直、安易、でたらめ、みみっちい、小賢しい、小奇麗な、妙な工夫、セコさを徹底的に嫌悪しました。

 

エッセイスト伊丹十三を見出し、世に送り出した山口瞳は、正統を語るその姿勢を指して「本書を読んで、ある種の厭らしさを感じる人がいるかもしれない。それは『厳格主義の負うべき避けがたい受難』であろう」と語り、反語的エールを送りました。

 

当時は珍しかったアーティショーの食べ方を紹介し、スパゲッティの正しい調理法として「アル・デンテ」という概念を語り、一方で黒豆の正しい煮方を指南する。英国のキューカンバー・サンドウイッチと本邦のカツパンの同質性を語り、ピーター・オトゥールの議論好きの性格にアイルランドの歴史と気質を洞察し、Jagaerは「ジャガー」ではなくて「ジャギュア」であること、Michelin はミケリンではなくてミシュランであること、温かい料理を盛りつける皿は必ず温めておくこと、英国で便所を訊ねる時はトイレットではなくてラヴァトリーと言うべきであることなどなど、バブル経済の洗礼を受けた後の90年代ですら、伊丹十三蒙の語る正統は、孤高の位置から日本人の蒙を開く存在であり続けていました。ましてや最初に書かれた60年代においておや。

 

伊丹十三に魅せられた理由は、まずその語り口にあります。

 

「わたくし」を主語にした「である」体に、「ですます」体がミックスされ、「で、ありますが」とか「ところが、である」とか「しかもですよ」などの思わせぶりな接続詞がしばしば現れ、そして「じゃないの」「だよ」「かね」「ねえ」といった気の置けない調子の語尾で読者に問いかける。

 

構えが大きく本質を突いた話題を硬軟自在の文体で語る知的な遊び心、そこから醸し出される時に滑稽で、時に苦く、時に考え込まされ、やがて哀しき読後感。伊丹十三が切り開いたエッセイの地平です。

 

その独特の語り口の根底にあるのが、その優れた知性とセンシティブな感性が持つ含羞と諦観です。

 

それは<近代への遅れ>という日本と日本人の宿命を前にしながら、正統、本物、正しさを語る際の含羞と諦観であると言えます。

 

「内発的」開化の西欧に対する「外発的」開化の日本という、夏目漱石が指摘した、明治期以来の近代日本が宿命的に抱え込まざるを得なかった歴史認識と通底しています。大げさに言えば。

 

含羞とは、<遅れ>をことさらに言い立てている自分への羞恥であり、諦観はその<遅れ>が宿命的なものであることへの認識です。

 

したがって、伊丹十三の語るエッセイはすべからく、日本論、日本人論に行く着くことになります。

 

「私の本当の結論をいえば、服装のことなんぞどうでもいいのである。いやあ、ほんとに服装なんかどうでもいいじゃありまか。ねえ。(中略)だからね、あんまり変てこりんな具合に工夫したり細工したりするのはやめようじゃないの。普通でいこう。普通で」(「日本人に洋服は似合わない」より、『女たちよ!』所収)

 

伊丹十三

 

衣・食や暮らしの正統とそのディテールを語って止まなかった伊丹十三が、同時に感じていた含羞と諦観がよく表れています。

 

1990年頃に伊丹十三に惹かれていった本当の理由は、バブルの狂騒とその崩壊という一連の流れのなかで、かつてなく豊かになった日本と、同時に<本物>よりも<本物らしさ>が幅を利かせる相変わらずの日本という、2つの矛盾する目の前の現実へのいら立ちやため息にあったのかもしれません。

 

昔も今も、伊丹十三の文章を読むたびに「日暮れて道遠し」、そうつぶやく伊丹十三の姿が目に浮かんできます。(「日暮れて道遠し」より、『ヨーロッパ退屈日記』所収)

 

さて、伊丹十三記念館です。

 

伊丹十三記念館がある松山市は、愛媛県の県庁所在地で、人口50万人を超える四国最大の都市です。適度な都市規模とコンパクトさが両立しているところが松山の魅力です。道後温泉があり、正岡子規が生まれ、夏目漱石が教鞭をとり、『坊ちゃん』の舞台になりました。

 

伊丹十三は、父で映画監督の伊丹万作の死後、17歳から21歳までの高校時代を松山で過ごしました。

 

伊丹十三記念館は、伊予鉄松山市駅からバスで20分ほどの場所、小野川に架かる天山橋(あまやまばし)のそばに建っています。伊丹十三と縁が深かった、松山の銘菓「一六タルト」で有名な株式会社一六本舗の敷地だった一画です。

 

伊丹十三記念館

 

黒い焼杉に覆われた外壁と軒の深いフラットな屋根が印象的です。外界から大切なものを守るために地上に舞い降りた、そんな印象の建築です。

 

地面から少し下がった位置にあるごく控えめなエントランスなど、ここでも外に閉じて、内に誘うデザインとなっています。

 

伊丹十三記念館

 

常設展示は、池内岳彦(本名です)の幼小の頃の絵や作文、愛用の楽器や料理道具、イラストの原画、自筆の原稿やシナリオなどが、十三にちなんだ13のコーナーに分かれて展示されています。

 

伊丹十三記念館

 

伊丹ファンにとっては、生原稿などを除くとオリジナルという以外はあまり目新しいものはなく、展示物はその確認のためという意味合いが大きいのですが、なかで興味を惹かれたのが、企画展示場でビデオ放映されていた、松山限定で放映された数編の「一六タルト」のテレビコマーシャルでした。

 

 

この作品では伊丹十三が昔の松山弁で語りかけたり、会話を交わしたり、口上を述べるのですが、その雰囲気と言い回しと表情が、伊丹十三のエッセイから受ける印象とそっくりでした。

 

ぼそっとしていて飾り気がなく、明快で直截な、それでいて温かい。伊丹十三の語り口のルーツは、実は松山弁にあるのではないか。ビデオを見ながら秘かな発見をしたようで一人ほくそ笑んでおりました。

 

暗い展示室を出ると、陽が差す中庭と屋根が架かった回廊空間に出ます。完全な外部でもなく、完全な内部でもない。守られた開放性、人を包みながらオープンな、そんな両義性や曖昧性が、展示を見た後の心象や想いや思索を受け止めてくれます。

 

伊丹十三記念館

伊丹十三記念館

伊丹十三記念館

 

設計を手がけた伊丹ファンを自認する中村好文は、修道院の空間をモチーフにしたとどこかで語っていました。

 

株別れした桂が木が一本だけ植えられた中庭とそれを取り囲む回廊は、簡素で潔く、小細工を嫌った伊丹十三にふさわしい、いい感じの場所になっています。

 

伊丹十三

 

山口瞳はこうも書いています。

 

「私は、彼と一緒にいると『男性的で繊細で真面(まとも)な人間がこの世に生きられるか』という痛ましい実験を見る思いがする」と(『ヨーロッパ退屈日記』あとがき)

 

今から思えば明察が過ぎて不吉とさえ思えてしまう山口瞳の言葉から32年後の1997年12月20日、 伊丹十三 は64歳で自死を選びます。

 

以上

 

text by 大村哲弥

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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