2020年3月で東京大学教授を退官する建築家・ 隈研吾 の最終講義「工業化社会の後にくるもの」が4月から全12回にわたって行われている。

 

講義とはいっても教授からの一方的な話ではなく、毎回異なるテーマを設け、テーマに関連した専門家を招いて講演や対談を行うというユニークなものだ。

 

第2回は「家族とコミュニティの未来」と題して、社会学者の上野千鶴子と社会デザイン研究者の三浦展を招いて行われた(2019年5月25日@東京大学本郷キャンパス安田講堂)。

隈研吾

 

上野千鶴子は基調講演のなかで、空間をめぐる建築家と社会学者の立場の違いを指摘している。
曰く、「空間帝国主義v.s.社会学帝国主義」。

上野は、建築家はなんでも空間化し、空間を支配するものが社会を支配するとする、建築家にありがちな考え方を「空間帝国主義」呼んでいる。
一方、社会学でいう空間とは、inter personal spaceのことであり、社会学者は社会的関係が生まれるところを空間(社会的空間)と呼んでいるといい、空間を近接性や距離など物理的空間とは無関係なものとしてとらえる社会学者の立場を「社会学帝国主義」と呼んだ。
空間を支配し、社会(人間の関係性)を支配した例は、枚挙にいとまがない。なかでも構造人類学者クロード・レヴィストロースが『悲しき熱帯』で紹介した南米のボロロ族のエピソードは象徴的だ。

サレジオ会の宣教師が、南米のボロロ族をキリスト教に改宗させるためにした行為が記されている。宣教師たちは、ボロロ族の社会生活と儀式に密接に結びついていた独特の環状構造の集落を解体し、彼らを中世ヨーロッパにみられる並行配置の集落に移住させ、そのことによってボロロ族の伝統的な社会は崩壊し、徐々にキリスト教に取り込まれていったという。
この事実は、空間をデザインし、社会を支配することが可能であることを物語っている。まさに空間は権力だ。
上野は、あれほど強固にみえた日本の家父長的雰囲気を残した家族は、わずか一世代で壊れたと指摘し、自らが闘った「敵」の意外なあっけなさにやや戸惑いを表明している。
住宅は家族を入れるハコとされ、家族にあわせて、あるいはあるべき家族像にあわせて住宅はさまざまにデザインされてきた。上野のいう家族の変容にも関わらず、住宅というハコはさほど大きく変わったようにはみえない。

また、上野は最近手がけている高齢者ケアの現実の分析をみるかぎり、空間の質はケアの質に影響を及ぼさないことが判ったといっている。設計されすぎた空間は、かえって制約や問題を生むとも述べている。

こうしたエピソードは、空間をデザインするものが、必ずしも社会(関係性)をデザインできるとは限らないことを物語っている。
六月蜂起(1848年)など労働者がバリケードに立てこもり武装蜂起する事態を見てきたナポレオン三世は、オースマンに命じ、パリの中世的街並みやスラムを撤去し、放射状街路により見通しを確保し、騎兵や砲兵が通れる広いブールヴァールをつくるパリ改造を行った。現在のパリのルーツはこのオースマンのパリにある。オースマンのパリ改造によって、バリケード封鎖などの効力は減殺され、その後に起きたパリ・コミューン(1871)の鎮圧の際に効果を発揮した。

約100年後の1968年、同じパリを舞台に蜂起の火の手が上がる。パリ5月革命と呼ばれ、管理社会にノンを突きつける運動として、その後アメリカ、日本など世界に広がった。
パリ5月革命に大きな影響を与えたのがシチュアシオニスト(状況論者)と呼ばれる運動家・思想家だ。彼らは、デトゥルヌマンDétournement(転用、ずらし、剽窃)と呼んだ方法によって、既成の商品やメディアや空間を本来とは異なった意図や使い方をすること(コラージュ、パロディ、コミック化、占拠、転用、落書、替え歌etc.)によって、空間に管理される市民、商品に支配される消費者、資本に動かされる社会からの解放と人間の主体性の回復を訴えた。このダダやシュールレアリスムにルーツを持つ、空間ではなく状況によって世界を読みかえていく思想によって、オースマンによる権力が管理するパリは、自由の解放区としてのパリにスライドした。
シチュアシオニストの思想は、68年革命の挫折の後、パンクムーブメント、ネット空間、ヴァーチャルリアリティ、AR(拡張現実)などに引き継がれていく。

 

 

隈研吾 が、最近、求めているのは「ボロさの追求」だという。ボロさはhumble(粗末な、つつましい、謙虚な)ということだそうだ。それは同時に、建築の作品性や建築家の作家性への批評を内包しているようだ。
「終わりにかね(矩)をはなれ、技を忘れ、心味の無味に帰する」(千利休口伝)の言葉は、作為なき作為という創造の境地を語っている。
隈研吾のいう「ボロさ」は禅やわびさびにも通じる価値観といえる。
あるいは、ファッションの世界において、決めすぎはカッコ悪い、カッコいいというのはカッコ悪いことだという、高度な水準で「無頓着」や「ダサさ」を演出するある種の価値観にも近い。
なにも新しいことではない。そして日本に限ったことでもない。その価値観のルーツは、茶の湯だったり、元祖ダンディズム(「ボー・ブランメルシンプルの系譜<4>」参照)だったりする。

「空間帝国主義v.s.社会学帝国主義」という見立ては、計画主義やデザイン主義という作為の限界と現実の複雑さ・多様さへの視座だともいえる。

ノイズがあった方が空間の許容度は上る。決め込みすぎた設計、決めすぎたデザイン、遊びのない空間、逃げ場のない関係は息苦しい。

近代の工業や産業は、まさに計画主義の産物だ。次にくるのは、作為なき作為、計画なき計画の境地なのか。

 

以上

 

text by 大村哲弥

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