シンギュラリティ(技術的特異点)をめぐる議論では、2045年にはAI(人工知能)の能力が人間を凌駕して、AIは人間を超えた存在となり、AI自体もしくはAIと接続された人間は、それまでの人間の能力をはるかに超えたポスト・ヒューマンとでも呼ぶ存在になる、と言われている。

 

今話題の『ホモ・デウス』(ユヴァル・ノア・ハラリ著、柴田裕之訳、河出書房新社、2018)では、シンギュラリティによって訪れる未来のポスト・ヒューマンは、ホモ・デウス(神のヒト)であり、人が作ったあらゆるシステムが崩壊にいたる、と予測されているそうだ(未読)。

 

モダニズムデザインは、人間のためのデザインではなく、実はポスト・ヒューマン思想に呼応したデザインだった。『我々は人間なのか?』(ビアトリス・コロミーナ、マーク・ウィグリー、牧尾晴喜訳、BNN新社、2017年)において、著者はそう喝破した(参照記事)。

 

ポスト・ヒューマン思想は人間が本来持っている根源的な願望の表れであり、シンギュラリティへの期待や不安も、昨今の話どころか、人間の本質的なものだ、ということになる。

 

さまざまに想像されてきたポスト・ヒューマンとは、人間の鏡であり、つまりは人間とはなにか?という根源的な問いに対するシミュレーションのようなものだ。

 

アンドロイド、サイボーグ、AIなど、さまざまな姿でポスト・ヒューマンを描いてきた映画の世界に、その願望と不安を見てみよう。

 

 

『ブレード・ランナー』。記憶が惹起する存在論的不安

映画『ブレード・ランナー』(監督リドリー・スコット、1882)には、フィリップ・K・ディックの原作題名『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(1968)が示すように、アンドロイド(人型ロボット)が登場する。

 

地球は第三次世界大戦による核爆発によって環境が破壊され、酸性雨が降りしきる世界となっている。人類の多くは宇宙の植民地(オフワールド)に移住している。

 

アンドロイドが開発され、人間の代わりに宇宙での植民地開拓や資源開発などの過酷な労働に従事させれている。アンドロイドは4年の寿命が定められているが、人間と同じ感情が芽生えたアンドロイドは、宇宙を脱走し、地球に戻り、人間社会で生きようとする。人間社会に潜伏したアンドロイドを抹殺する役目の専任捜査官はブレード・ランナーと呼ばれた。

(Rutger Haoer on Blabe Runner , source :  ASIF AHSAN KHAN

*下線部のリンク先 :

https://asifahsankhan.wordpress.com/2017/03/22/blade-runner-ridley-scotts-stylish-1982-dystopian-masterpiece/like-tears-in-the-rain-rutger-hauer-blade-runner/

 

『ブレード・ランナー』で印象的なのが、終始感情をなくした表情で生きるブレード・ランナー(ハリソン・フォード)に対して、アンドロイドとしての苦悩や生きることへ渇望や宇宙の美を語るアンドロイドの「人間的」な姿だ。ルトガー・ハウアーの迫真の演技がアンドロイドが抱く存在論的不安に映画的リアリティを与えた。

 

さらには、記憶のなかの出来事がきっかけで(アンドロイドの記憶は人間の記憶をインストールしたものとされる)、ハリソン・フォード自身がアンドロイドではないかという疑義が浮かび上がり、人間とポスト・ヒューマンの境は一気にあいまいになり、存在論的不安は究極化する。

 

自分とはなにものなのか?それを証明するものは?人間らしいアンドロイドが登場したら?本作はポスト・ヒューマンを語りながら人間の根源的不安を語る物語だ。

 

 

GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』。 ガイスト (精神)と電脳の海という豊饒さ

ガイスト ゴーストンザシェル

映画『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(監督押井守、1995)では、電脳と呼ばれるコンピュータ・ネットワークにつながった脳と義体とよばれる人工物化された身体を持つサイボーグが主人公である。

 

公安9課の捜査官のリーダー草薙素子は、脳と神経系統以外は義体化した「完全義体化」のサイボーグとして登場する。草薙素子はいつもどこか思いつめたような物憂い表情をしており、相棒のバトーがその不安を気にかけている。草薙が口にするのは、自分が自分なのかという疑問。脳以外が作り物となった自分とはなに者なのか。以前の自分と今の自分は同じなのか。意識があればそれ以外は人工物でも人間なのか。

 

そうした疑問と不安をかき消すように、人工物にはないとされる自らの内なる「ゴースト」(意識、心、精神、霊性)の存在によって自身を確認しているが、その憂い顔は晴れない。

ガイスト ゴーストインザシェル

(source : natarie)

*下線部リンク先 : https://natalie.mu/comic/pp/diginata_gits01

 

「人形使い」という国際テロの犯人とされるハッカーが登場する。「人形使い」はもともとは外務省の陰謀のために作られたプログラム(AI)であり、電脳界に存在する間に、ゴーストが生まれ、自らを「電脳の海で発生した生命体」と名乗る。外務省は口封じのために抹殺を図るが、「人形使い」は公安9課の草薙の下に逃げ込む。

 

「人形使い」は、人間のゴーストを持つ草薙素子のゴーストとの一体化を望み、草薙もこれを受け入れ、その後、草薙素子は電脳の海のなかの存在へと進化し、現実からは姿を消す。

 

「人形使い」が人間のゴーストとの融合を希求する理由は、その生命の「完璧性」を求めて。AIにとっては、生殖と個体の死を通じて種としての永続を図る人間が「完璧」に見えるということになっている。

 

逆に人間のゴーストを持つ草薙素子は、どこまで義体化すれば人間でなくなるのか、自分ははたして人間なのか、という日ごろの存在論的苦悩から逃れるように、義体という身体性を捨てて、「人形使い」のゴーストと融合して、人間を超えた存在へと飛翔する道を選ぶ。

 

人間を「完璧」とみなすAIの姿、あるいは、進化を求めて行き着くのは、生命誕生の起源である海のアナロジーとして描かれる電脳界という逆転の構図が鮮やかだ。

 

鏡像は自己認識の始まりといわれるが、人間はポスト・ヒューマンに憧れ、ポスト・ヒューマンは人間に嫉妬する。

 

To be continued

 

text by 大村哲弥

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