再訪した アンスティチュフランセ 東京(旧東京日仏学院・1951年)では、来年(2019年)改修・増築を迎えるにあたって、「建築家・ 坂倉準三 パリ-東京 生き続ける建築」展(2018年9月6日~10月21日)が開催されていた。

坂倉準三 展覧会 アンスティチュフランセチラシ

ホールには坂倉準三がデザインした天童木工の椅子が展示されている。コルビュジエ事務所の同僚だったシャルロット・ペリアンとの共働に始まり、坂倉はさまざまな椅子や家具をデザインしている。そのいずれもが、モダンでかつどこか日本的なものを感じさせる穏やかな印象を与える椅子たちだ。

<前編>で見たように、あくまで端正でありながら、ヒューマンで自由で、そして優美さや都会的なセンスを忘れない、そんな作風は坂倉建築ならではだ。それは、同じくコルビュジエ事務所に学んだ、前川國男の原理的なアプローチにも、吉阪隆正の造形的なフォルムにもない、はるかに師ル・コルビュジエの作風に近いものを感じさせる。

(*source : https://www.espazium.ch/junz-sakakura-exposition-et-confrences

坂倉準三は、1931年~1939年の足掛け約9年間(2回の帰国を間に挟みながら)、ル・コルビュジエ事務所に籍を置き、日本人としては最も長い間、師コルビュジエと直接の交流があった建築家だ。

坂倉が在籍していた当時のコルビュジェ事務所は、ソヴィエト・パレス(1931年)、サヴォア邸(1931年)、スイス学生会館(1932年)、パリ救世軍本部(1933年)、CIAMによるアテネ憲章(1933年)、ナンジュセール・エ・コリ通りのアパート(コルビュジエ自邸・1934年)、『輝ける都市』(La Ville Radieuse・1935年)、パリ万博のパヴィリオン(1937年)、アルジェ都市計画(1930-42年)などのプロジェクトを手がけ、コルビュジエが「白の時代」の住宅作家から、より多様な表現で都市や世界の地域を相手する建築家、都市計画家へと変貌していった時期にあたる。ここに掲げたエポックメインキングな作品のいくつかは坂倉が直接担当したものであり、坂倉はコルビュジエが巨匠に変貌していく過程に直接立ち会っていた稀有な存在だった。

 

一次帰国の後、再渡仏してコルビュジエ事務所に席を置きながら手掛けたパリ万国博覧会日本館(1937年)はグランプリを獲得し、世界に坂倉準三の建築、そして日本のモダニズム建築を知らしめることになる。

坂倉は当時のことをこう語っている。

 

「パリ博で日本館を造ったとき、自分の日本の血というものに割合に自信を持っている。というか安心している。兎に角その安心の上に立って、新しい日本のインターナショナル建築をつくろうと意図したわけで、あの線は未だあれでよかったという気がしているんですがね」

 

坂倉はほかのどの日本人建築家とも異なっている。ほかの日本人建築家は、当時、ブルーノ・タウトらの西洋人の目を通して、モダニズムと相通じる(あるいはモダニズムを先取りしているとも言われたりした)日本建築を<発見>したが、坂倉だけは最初から自らの目でモダニズムと日本建築とを見据えていた建築家だった。「安心している」とはそういうことを意味していたと思われる。

 

借り物のモダニズムや教条的なモダニズムだはなく、いわば自然体のモダニズム。

 

坂倉建築が漂わせる、素直さや伸びやかさや構えの大きさやどことない余裕や穏やかさはここに由来しているといえる。モダンと日本が違和感なく共存、融合、一体となっているような作風はここからきている。

 

それは、 坂倉準三 が建築学科の出身ではなく帝国大学文学部美術史学科の出身であり、パリのコルビュジエのもとで一から建築修行を始めたこともその大きな要因だったと想像できる。

 

坂倉準三 は師への追悼文で、ル・コルビュジエの使徒としての使命感をこう語っている。

 

「あなたなくしては今日の建築家としての私は恐らくなかったでしょう。しかし、自分の建築の創造活動をかえりみて、あなたの創造精神を正しく捉え、つたえ得たでしょうか。私たち建築家はともすればあなたの素晴らしい造形上の魅力に取りつかれて、その基盤となっているあなたの人間への愛情を中心とした建築の創造精神を正しく捉え得ていなかったといえるでしょう。(中略)あなたが、今世紀の建築のために78年間の生涯を闘い抜かれたその建築の創造精神を正しく理解し、私たちのものとして新しく次の世代に伝えることが私たちに遺された義務であります」

 

「人間への愛情を中心とした建築の創造精神」。これこそ、坂倉が師コルビュジエのから受け継いだ本質であり、坂倉建築が目指したものだった。

 

坂倉のヒューマンで自由な作風や家具や住宅から都市計画まで、あるいは美術館、官庁から新宿や渋谷のターミナルまで、規模や用途の違いや官民の間に境を設けることをせず、戦後日本の<都市の時代>の要請に応えた大小さまざまのプロジェクトは、師コルビュジエから受け継いだ創造精神を実践した軌跡だ。

渋谷駅 東急 坂倉準三

旧渋谷駅 坂倉準三

坂倉の思いを師コルビュジエも理解していたのだろう。坂倉準三はこんなエピソードを残している。

 

「コルビュジエは本当にうれしそうだった。

いよいよ食卓につくと、私のナフキンの上に、一つの美しい貝殻が置いてある。

「それ開けてご覧」

(中略)

おそるおそる貝殻を開けて見た。中は空っぽで、

貝殻の裏に「サカクラへの友愛をこめてル・コルビュジエ1960年7月8日」

と黒インクで記されてあった。心から私をその日招いてくれた気持ちを

貝殻の中の文字に托しておかれたのだ。

私は一瞬眼がしらが熱くなる思いだった」

(「ル・コルビュジエの貝殻」、「オール讀物」、文芸春秋社1961年3月号より抜粋)


(参考文献)

 

『建築家 坂倉準三  モダニズムを生きる|人間、都市、空間』(建築資料研究社、2010年)

『建築家 坂倉準三  モダニズムを住む|住宅、家具、デザイン』(建築資料研究社、2010年)

松隈洋『 坂倉準三 とはだれか』(王国社、2011年)

 

以上

 

text by 大村哲弥

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