フランク・ロイド・ライト のジャポニズム、日本趣味

フランク・ロイド・ライト のジャポニズム(日本趣味)は1850年代中葉にヨーロッパで流行し、世紀末から20世紀初頭にかけて、アメリカでも注目を集めるようになる。

1887年、 フランク・ロイド・ライト は大学を中退し、シカゴのジョゼフ・ライマン・シルスビーの建築事務所に就職する。ライトはこのシルスビーを介して日本文化、とりわけ浮世絵に魅了されていく。

シルスビー自身が東洋美術の蒐集家でもあったが、より重要なのは、シルスビーがアーネスト・フェノロサの従兄だったことだろう。フェノロサは、明治期に日本美術をアメリカに紹介したキーマンであり、日本から帰国後はボストン美術館東洋部長を勤めた人物である。ライトが最初に手に入れた浮世絵はフェノロサからのものだったらしい(『 フランク・ロイド・ライト と日本文化』 ケヴィン・ニュート 1997)。

このフェノロサと東京帝国大学での同僚だったのがエドワード・モースであり、そしてフェノロサの弟子だったのが岡倉天心だ。モースは日本の住宅研究の嚆矢といわれる『日本のすまい 内と外』(原題 Japanese homes and their surroundings 1886)の著者であり、岡倉天心は日本文化の精神を英語で語った『茶の本』(原題 The book of tea 1906)を書いている。

ライトは、当時のアメリカにおける日本研究の第一線の人物のサークルのなかにいた。ライトは浮世絵蒐集家、そして名うての浮世絵ディーラーとして名を馳せていく。

「現在、合衆国にあるほとんどの浮世絵は、かつて私の所蔵したものか、私が精力的に買い集めたものである」と豪語するライトの言葉はあながち誇張ではなかった。(『 フランク・ロイド・ライト の日本』 谷川正巳 2004)

そんなライトが実物の日本建築を始めて見たのが1893年のシカゴ万博で建てられた日本館鳳凰殿である。

 

シカゴ万博 日本館鳳凰殿 1893年 デザインテレビスタンドのザイトガイストによるデザインストーリー

(シカゴ万博 日本館鳳凰殿 1893年)

鳳凰殿は、宇治の平等院鳳凰堂を模した建築で、すべての材料を日本から持ち込み、日本の職人の手で建てられたものだ。日本建築の伝統をアピールするためか、様式的には藤原、足利、徳川の三つの様式が盛り込まれていた。パンフレットは岡倉天心が書いている。

シカゴ万博では、ライトが当時、勤務していたルイス・サリヴァンの事務所も交通館を設計していた。その設計監理を担当していたライトは、鳳凰殿と出会い、その工事の一部始終を観察し、完成後も足しげく鳳凰殿を訪れていたという。(『 フランク・ロイド・ライト とは誰か』 谷川正巳 2001)

日本文化にすっかり魅了されていたライト。

そんな目で改めてヴァスムート版『 フランク・ロイド・ライト 作品集』を眺めてみると、前掲書でケヴィン・ニュートが指摘しているように、ウィンズロウ邸のファサード構成やヴォリューム感は、鳳凰殿そっくりだし、そのパースの構図は、柳の枝葉を内部フレームに設えた歌川(安藤)広重の浮世絵「八つ見の橋」(『名所江戸百景』 1856)にそっくりなのだ。

鳳凰堂vsウィンズロウ邸 デザインテレビスタンドのザイトガイストによるデザインストーリー

(鳳凰殿立面図(左)vsウィンズロウ邸立面図(右) 『 フランク・ロイド・ライト と日本文化』 ケヴィン・ニュートより)

 

八ツ見の橋 デザインテレビスタンドのザイトガイストによるデザインストーリー

(「八つ見の橋」 歌川広重 『名所江戸百景』より)

 

ヴァスムート1 s

(ウィンズロウ邸パース STUDIES AND EXECUTED BUILDINGS BY FRANK LLOYD WRIGHT,1998より)

 

さらには、ライトのほかの作品、例えばプレイリースタイルの代表作ロビー邸の極端に長く延びた二重屋根は、東本願寺の重層入母屋造の屋根を思い起こさせるし、また、生涯の最高傑作として有名な落水邸(カウフマン邸)の流れ落ちる水は、否が応でも、葛飾北斎が描いた浮世絵のなかの滝を連想させる。

ロビー邸 フランク・ロイド・ライト

(ロビー邸 FRANK LLOYD WRIGHT MASTER BUILDER,UNIVERSE PUBLISHING,1997より)

カウフマン邸S フランク・ロイド・ライト

(カウフマン邸 FRANK LLOYD WRIGHT MASTER BUILDER,UNIVERSE PUBLISHING,1997より)

日本文化から受けた影響

ライトの建築を見た時の、不思議な既視感は、こうした理由によるものだったのだ。

ライトは日本美術に心酔していたことは認めているが、浮世絵や日本の建築からの影響は頑なに否定している。

「私の作品に、外国のものと、土着のものを問わず、外部からの影響は、決してなかったことを述べておきたい。(中略)現在に至るまで、いかなるヨーロッパの建築家の作品も、私には全然影響を与えなかったことを付け加えたい。(中略)インカ、マヤそして日本のものについていえば―すべてこれ、私にとって素晴らしい確認であった」(『ライトの遺言』 フランク・ロイド・ライト 1961)

巧妙な戦略家でもあったライトらしいというべきか、あるいは、肯綮(こうけい)に中る指摘に対する過剰反応とみるべきか。

今日、インターナショナル・スタイルとして世界に普及しているモダニズムデザインが誕生した背景には、伝統的な日本文化からの影響があった。そして、日本文化に内包された価値が、モダニズムへと昇華されるためには、 フランク・ロイド・ライト の天才性が不可欠だったことを忘れてはならない。

text by 大村哲弥

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