女学校を出て花嫁修業をしていた、デザインとも建築とも無縁な20歳の日本人女性がバウハウスに入学したら。

『 バウハウスと茶の湯 』の著者山脇道子は1930年(昭和5年)、夫の建築家山脇巌とともにデッサウのバウハウスに入学し、1932年にナチスによって廃校に追い込まれるまでの2年余りをバウハウスで学んでいる。

「山脇家のおしゃまな総領として育ち、恐いもの知らずでバウハウスに入学した」との本人の言葉どおり、物怖じしない好奇心にあふれる20歳の女性が体験を描いた書『 バウハウスと茶の湯 』いきいきとしたバウハウスが伝わってくるのが本書の魅力だ。青春の書、思わずそんなふうに呼んでみたくなる。

随所に載せられた写真の山脇道子が実に魅力的だ。表紙にはバウハウスの学生証の写真が載っている。富裕な出自を偲ばせる上品な顔立ちのなかにも、上目遣いで見据えるような眼差しと少し力を込めて結ばれた口元が、世界を見てやろうという秘められた意思を訴えかけてくる。

バウハウスと茶の湯

バウハウスへの打撃

バウハウスの教え

バウハウスでの授業風景はこんな風だったそうだ。「アルベルスにしてもカンディンスキーにしても、そしてシュミットにしても、「こうしろ、ああしろ」と手取り足取り教えるのではなく、学生に自分の頭で判断させる点では共通していました。(中略)学生自身がいかに体得するかがすべてでした。デザインの基本を習うということはこういうことなんだと、強く感じました」

バウハウスでは、教師の模倣ではなく学生に自分自身の手法を見つけさせる、という初代校長のヴァルター・グロピウスが語った言葉を思い起こさせる。

デッサウでの日常の暮らしの様子も描かれている。ある日、夫妻はカンディンスキー夫妻とアルベルスと学長のミースを下宿に招いてすき焼きでもてなす。あのミース・ファン・デル・ローエがすき焼きを食べている!はたしてミースはどんな感想を持ったのだろうか?

帰国後、山脇巌が設計した駒場の自宅の写真が載っている。シンプルでミニマルな空間に、ミースやマルセル・ブロイヤーのカンチレバーのチェアが置かれている。とても80年前とは思えない、まったく古さを感じさせない空間に驚かされる。

山脇邸リビング

三岸アトリエ

「私は茶の湯の世界に生まれ育った人間です。そんな私が、何もしらないまっさらな頭でバウハウスに学びはじめて、あっと思ったことがありました。それは、 バウハウスと茶の湯 はとても似ているということです。突拍子もないことに聞こえるかもしれませんが、いずれの世界にも共通しているのは、シンプルかつ機能的であることを良しとし、材質の特性をできるだけそのまま生かそうとする姿勢です。このことに気づいた時、バウハウスでやっていけると初めて自信を持てたような気がしました」

バウハウスと茶の湯を語ったこの山脇道子の言葉は、双方の実践者の言葉として重みを放っている。

原研哉はこういっている。「日本は西洋モダニズムに先駆けること数百年、室町時代中期に、既に簡素さに美を見出す価値観を生み出していた」。それは茶の湯の美意識に端を発すると。(『白』原研哉 2008)

text by 大村哲弥

 

書籍 『 バウハウスと茶の湯 』

 

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