モダンデザインを一言でいうとシンプルなデザインということになるだろう。

 

広辞苑には「シンプル」とは「単純なさま」とある。シンプルとは、色・かたち・素材が簡素で抑制されているさまである。

 

シンプルはモダニズムの専売特許ではない。また、建築やプロダクトのデザインに限られるというわけではない。シンプルという価値観はどこから来たのか。その具体的な現れ方とは。シリーズ《シンプルの系譜》では、さまざまな切り口でシンプルの様相を探ってみる。

 

シンプル ミニマリスト

 

(*photo by Lukas

 

ミニマリスト と呼ばれる極力モノを持たないライフスタイルが話題にのぼるようになったのは数年前ぐらいからか。

 

住まい、装い、食事、趣味、レジャーなど生活全般を簡素化し、住宅、車、テレビなどを持たずに、家具、道具、服、本などを最小限にした生き方を指して ミニマリスト と呼ばれている。

 

かたづけブーム、シェアエコノミーの台頭、ノームコア(究極の普通)ファッションなども同じ価値観に根ざしている。

 

ミニマリストのヒーローといえば、黒のタートルネック、リーバイスのジーンズ、ニューバランスのスニーカーといういでたちでiphoneなど、アップル製品のミニマリズムを主導したスティーブ・ジョブズだ。

 

日々進化するデジタル技術が、モノを持たなくても暮らすことができるという現実をつくりだし、ミニマリストの大きな武器となり、ミニマル生活競争の最前線を拡大している。

 

PC、タブレット、スマホ、Gmail、twitter、facebook、Line、itunes、amazon、Kindle、netflix、Dropbox、Wi-Fi、Bluetooth、Uber、Airbnb、ネットバンキング、仮想通貨、Payサービス、サブスクリプション、メルカリなどインターネット、IT、アプリなどのデジタル技術の進化は、あらゆる分野でモノが要らない暮らしをますます可能にしている。

 

物理的なモノに比べ個人的愛着や記憶が宿り、なかなか手放せなくなる、思い出の写真や手書きの手紙や自筆の作品などですら、デジタルデータとして保存し、実際のモノとしては廃棄される時代だ。

 

スマホとクラウドサービスがあれば、世の中のほとんどはなんとかなるという、そんな時代が到来している。

 

デジタルやITのおかげでミニマリストになれる、これは確かだ。とはいえ、モノへの執着を捨てシンプルに生きるという ミニマリスト の価値観は、デジタル時代の産物では決してない。

 

100年以上前に、真の幸福な生き方はカネやモノの豊かさではなく、精神的な強さを持ったシンプルな生き方だと、シンプルライフを説いた書『簡素な生き方』(シャルル・ヴァグネル著、山本知子訳、国宝社、2017年)が出版されたのは1895年だ。日本は明治28年、日清戦争の頃だ。

 

フランスの教育者・宗教家シャルル・ヴァグネル(1852-1918)が生きた時代は、ウィリアム・モリスによるアーツ・アンド・クラフト運動の時期とほぼ重なっており、先の著作が出版されたのは、モリスが亡くなる前年だ。

 

アーツ・アンド・クラフト運動は、産業資本主義による劣悪なモノの氾濫を批判し、その後のモダンデザインのルーツとなった。シンプルライフへの希求は、大量生産によるモノの普及と表裏一体で生まれたことがわかる。

 

ジョン・メイナード・ケインズは「孫の世代の経済的可能性」(1930年)と題した論文で、技術の進歩により、生産性が上り、その結果、人は週15時間しか働かなくても、金銭的問題から解放された、自由で豊かな暮らしを享受できる世に中になるだろう。それは100年後の2030年頃には実現されるはずだ、と予測した。(ロバート・スキデルスキー&エドワード・スキデルスキー 『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』 村井章子訳 筑摩書房 2014年)

 

しかしながら、そんな社会は今なお実現されていない。おそらく2030年にも訪れることはないであろう。

 

貧しさから脱し、生活の必要(欲求)が満たされ、どんなに豊かになっても、ひとの欲望には際限がなかった。欲求は有限だが、欲望は無限だ。

 

生活欲求を満足させることから離れ、商品化したモノ。劣化せず、蓄積可能で、すべてのモノが購入可能なカネ。無限に欲望を刺激する商品化のシステムと究極の商品としての貨幣が資本主義の本質だ。

 

ミニマリストの源流には、こうしたモノ、カネによってひとが支配される社会への嫌悪があった。今日の ミニマリスト の登場は、モノとカネがひとを支配する社会が、いよいよ飽和状態に至ったことの証なのか。

 

ミニマリスト

 

(*photo by Paula Schmidt

 

キリスト教的現世否定の価値観の本質は、手の届かない葡萄は酸っぱい葡萄だとして自らを納得せるルサンチマンによる価値の転倒であり、「道徳上の奴隷一揆」であるとニーチェはいった。そして、神という超越性を信じ、現世を否定する態度こそニヒリズムであるといった。

 

モノへの欲望を断ち切るというミニマリストの態度は、ルサンチマンによる現世否定、価値の転倒、そしてニヒリズムの一種なのだろうか。

 

ニーチェはニヒリズムには2つのパターンがあるともいっている。ひとつは「受動的ニヒリズム」と呼ばれるもので、先に述べたような、神やイディアなどある種の超越性を信じることにより、目の前の現実を否定的に捉えるというニヒリズム。もうひとつの「能動的ニヒリズム」とは、神などの超越的存在を信じずに目の前の苦悩や生を無根拠なまま受け入れ、現実を全面的に肯定するという徹底的なニヒリズム。

 

ニーチェ流にいえば、ミニマリストにも2種類あるのかもしれない。モノは無意味だとし、モノからの支配を脱しようとモノから遠ざかる「受動的ニヒリズム」。そして、モノの無意味さやモノから逃れられない現実を受け入れた上でモノと対峙する「能動的ニヒリズム」。

 

無限の欲望やモノやカネへのこだわりは、有限な人生という現実を先送りし、最期は無に帰す生の無意味さに耐えるための自意識が仕掛ける罠なのかもしれない。

 

ミニマリスト

(*photo by tenz1225_Steve Jobs 1995-2011 / CC BY-SA 2.0)

 

ミニマリスト のヒーロー、スティーブ・ジョブズは、2005年のスタンフォード大学の卒業式の講演でこう語っている。

 

“Remembering that you are going to die is the best way I know to avoid the trap of thinking you have something to lose. You are already naked. There is no reason not to follow your heart.”

 

「自分はいずれ死ぬのだということを忘れずにいることが、自分はなにがしか失うものを持っているという考えの罠に陥らないための最良の方法です。我々はみんなはじめから裸なのです。自分の心に従わない理由はないのです。」

 

ジョブズのこの言葉ほど、究極のニヒリズムの持つ創造の可能性を感じさせるものはない。

 

以上

 

text by 大村哲弥

 

 

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