見田宗介は、世界人口の増加率曲線は1970年前後に変曲点があり、1970年前後は、20世紀後半に起こった社会の爆発的拡大という時代が世界的に転換点を迎えた時期だと述べている。(見田宗介『社会学入門』 岩波新書 2006)。ローマ・クラブが『成長の限界』を発表したのが1972年であった。
日本の都市は、高度経済成長期の人口の爆発的流入を背景に、建物の大規模化、高度化、高密度化が進み、市街地の無秩序な拡大、生活環境悪化、交通渋滞、住宅問題などさまざまな問題に直面していた。
<拡大の時代の終わり。都市の深層構造に向かう眼差し>
槇文彦 『見えがくれする都市』(鹿島出版会)は1976年から1978年にかけての共同研究の成果をまとめ、1980年に書籍として出版されている。
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今にして思うと、それまでの都市問題に対する対症療法的なアプローチの空しさを指摘し、歴史と深層構造にさかのぼって都市を理解する必要がある、という本書の問題意識の根底には、近代以降の拡大の時代が終焉を迎えつつあるという時代の予感のようなものが横たわっていたような気がする。
おのずとその方法論は、文化人類学的発想や構造主義的手法に近づいていく。
「見る対象としての形は、同時に、大げさにいうならば、都市社会に存在する文化的なコンテクストの中で、それぞれ何を意味しているかを知らなければ、本当の理解に達したとはいえない」
<道、微地形、場所性、表層。そして「奥の思想」>
「道の構図」「微地形と場所性」「まちの表層」と名づけられた章ではそうした方法論による東京の構造分析がなされる。
「道の構図」では、中心や全体という視点を欠きながら、その場その場で適合解を求めるかのように、敷地や街区内部に路地や横町が通され、住宅街が形成されてゆくプロセスが明らかにされる。こうした構造は山の手と下町に共通するだけではなく、意外にも農村村落の道の構造と相同であると指摘される。
微地形に注目して、江戸の都市構造は東京に忠実に引き継がれていることを語り、坂や崖などは都市の「しわ」や「ひだ」として、日本の都市に独特の場所性を生み出してきたことを論じた「微地形と場所性」。
日本の住宅街のファサードをお屋敷型、町屋型、裏長屋型、郊外住宅型の四つに類型化し、「薄い面」の重層と「すき間」を日本の住宅地の形態的特質として抽出する「まちの表層」。
こうした都市の構造分析にもまして興味深いのは、槇自身が筆をとった最終章の「奥の思想」でる。
<「奥―包む」という空間概念で作られてきた日本の都市>
「奥の思想」では、中心概念を欠き、全体への関心が希薄な、リジッドさとは正反対の日本の都市を特徴づけているものとして奥という概念が提示される。
西欧では厳しく広大な環境のなかで「中心-区画」という空間概念によって都市を作り出してきた。一方、温暖で緑多い山あいなどに都市が作られてきた日本においては、「奥-包む」というまったく別の空間概念が支配してきた。
この奥という概念は必ずしも都市分析から論理的に導きだされたわけではなさそうだ。奥はむしろ槇自身の身体的な空間体験から生まれてきた概念のようだ(実際「奥の思想」の章は1978年に独立した論考として先行して発表されたものである)。
<山の手、下町、町屋の空間。奥の空間体験を語るスリリングな描写>
自らの空間体験に基づき、日本の都市の奥あるいは「奥性」の具体例を、槇は次のように記している。その正確でセンシティブな描写は、読む者に奥の持つどこか謎めいた感じや身体を包み込むような安堵感を覚えさせ、今、読んでもスリリングだ。
たとえば、著者が当時住んでいた東京の山の手を象徴するような台地と谷が複雑に入り組んだ三田の町の描写。
「小山台の標高はたがだか十五メートルであり、三田台にしても約二十五メートルの高さであるに過ぎない。にもかかわらず、道が狭く、屈折しているため、実際の高さ以上の到達感がある。さらに尾根の道から分岐して丘のひだに向かって入っていく細い道に沿って、往々にして外から想像もつかないようなひめやかな景観に遭遇する。道はきまったように屈折し、時に崖縁に沿って急激にUターンしたり、突然石階段に変貌したりする。車も人も入れないような細い道の両脇に群生する小家屋は、もちろん東京のここ数十年のすさまじい都市の高層化からも取り残され、あるいは取り残されたというよりもむしろ生き残ったというある種の開放感に息づいているようである」
あるいは、著者の当時の事務所があった、江戸時代からの平坦な商業地(下町)の代表格の日本橋界隈の描写。
「しかし一歩、大通りから街区の内側に入ると、ビルの谷間という表現がまさに適切なように、細い露地が発生し、その周辺に低層の家屋が群生している。家屋と家屋の間は実に細かく露地化し、せり出した二階のバルコニーには夏ともなるとすだれがおりていたりする。薄暗い室内は明るい外からはしるよしもないが、なにか蠢くものをふと垣間見たりすると、やはりそこに日本らしい空間のひだの存在を感じるのである」
さらには、明石町に残る昔からの町屋の室内空間の描写。
「数年前私は築地の明石町の小さな町屋に住む老婦人を訪問する機会があった。間口四尺満たない入口へ格子を引いて入ると上がりかまちは正面ではなく側面に設けられている。(中略)私が驚いたのは、この僅かに八坪に満たない小空間の中に展開する方向性の複雑さであり、座の重畳性であった。そして神棚、仏壇、床の間の存在によって、この小空間はさらに方向性を増し、奥性の存在を強化する」
奥という概念の魅力とリアリティは、当代きってのモダニストであり、モダニズムの倫理性や都市のパブリック性を説いて止まなかった建築家自身の身体的な空間体験と直感に裏づけられているからだと言える。本書の色褪せない魅力もまさにこの点にある。
<今も都市遊歩者を魅了して止まない日本の都市に潜む奥>
「かくして奥は都市(あるいは集落)の中に無数に発生する。(中略)都市は絶対的な中心をかかげ、蝟集(いしゅう)するところではなく、各々の奥をまもる社会集団の領域として発展してきた」
日本の都市における「全体の中心性の欠落は、逆に場所性の存在によって補われてきた」
駅前や表通りではとっくに失われている奥が、通りを一本入った界隈に今も息づいていることを感じる瞬間、あるいは建物は様変わりしながらも、今も残る狭い道や坂や崖や緑深い寺社の佇まいに時空を超越したようなものとの密かな交感を感じる瞬間などに、今日の都市遊歩者や都市徘徊者もまた、東京の変わらないもの(都市構造)と尽きない魅力を感じているのだ。
ブラタモリなどによる坂道人気、歴史地図や歴史散歩など江戸と東京への関心、暗渠マニアなどの東京の川へのマニアックな注目、東京スリバチ学会など地形萌えなど、下火にならない江戸東京ブームが、それをあらわしている。
では、かつて以上に変貌著しい現代の都市において、奥や「奥性」は、今後、どうなっていくのか。
<失われつつある奥。望ましい空間の質は深みにある>
奥は甚だ脆弱であり、都市開発のプレッシャーに対して無力であり容易に消失してきた。さらには1980年代のバブル時代の土地開発や2000年代以降の規制緩和が後押しする都心再開発などにより、ますます失われつつあるというのが現実だ。
一方、奥は「少々のプレッシャーに対し、それは「中心」によって構造づけられた都市とは違って再分裂し続ける細胞のように飛散しながらも、小空間の中に様々な形で生息し続け、柔軟な構造原則としてポジティヴな、面をも維持しつづけてきた」とも指摘される。
奥の今後に言及して実践者としての著者が書きつけたのが次のような言葉だ。
「望ましき空間の質は単にひろがりにあるだけでなく深みの創造にあることを日本の都市の歴史は物語っている」
失われつつある奥をモダニズムの建築言語を使って、自らの手によって再創造したのがヒルサイドテラスである。<中・後編>ではその「深みの創造」の実践を見るべく代官山にヒルサイドテラスを訪ねる。
以上
Text by 大村哲弥