ル・コルビュジエ は50冊を越える著作を残している。モダニズム建築のもうひとりの巨匠であるミース・ファン・デル・ローエが一冊の著作も残さなかったのとは対象的であり、その多作さと能弁な語り口は、言葉を能くする建築家のなかでも群を抜いている。

その能弁さゆえに、逆に全体としての統一像が結びにくいのが建築家ル・コルビュジエだ。

LECORBUSIER-ルコルビジェ ル・コルビュジエ

(*Photo by Michael-LE CORBUSIER @ THE BARBICAN

https://www.flickr.com/photos/sagamiono/3480698032/in/photolist-6izug3-28inv3-7s5655-s9YEWQ-2bakCb-8q3YAi-4QFNND-5fXmoo-8q6NC1-31Mart-ae1Kgn-2G4RkR-J4nNdh-2BZPUR-asiCgE-adPEoJ-2G9b2S-adPFSJ-23nsLVf-TWdekm-d4jwcu-ae1KgP-28ipVb-cLUzCJ-8EHp2i-8q3L1R-cBn3my-ERnPH-Hh8RGG-mXtRFx-5fXiWh-baf5Wi-28ikYC-qJJWR2-apPijE-4QG6px-afjx5f-5591V3-3fDX1T-4bATtb-2G4SK4-28dSP8-spjMYs-ae1KgK-8q3y86-2G9bdS-4ZfZt2-8Jhp85-aseydi-6vx2Ue

 

人間ための建築を標榜しながら、「住宅は住むための機械」という一言で激しい賛否両論と今に続く論争を巻き起こした。

「300万人の都市」「近代建築の5原則」「輝ける都市」「摩天楼は小さすぎる」など、ル・コルビュジエのポレミックな(いまならさしずめ炎上狙い、というところか)言説は枚挙に暇がない。

ル・コルビュジエの肉声による語りが貴重な記録として残されているのが、1950年代のインタヴューを中心に構成された映像『ル・コルビュジエ』(DVD3枚組 監督ジャック・バルサック 1987)である。

論争好きのエピソードや黒ぶち眼鏡に蝶ネクタイの巨匠然としたイメージを裏切るように、辛抱強く、丁寧に語るその姿は、生真面目そうな性格が滲み出ており、新鮮で印象的だ。

映像に残された本人の言葉を手がかりにル・コルビュジエ像を探ってみる。

 

<異端者にして社会革命家 ル・コルビュジエ >

 

「地上の楽園を実現することが建築家の役目だ」。「混乱し自然との調和を失った社会を正常な状態に戻す」 

ル・コルビュジエことシャルル=エドゥアール・ジャンヌレは、1887年にスイスのジュラ地方のラ・ショー=ド=フォンに時計職人の父とピアノ教師の母の間に生まれる。

ル・コルビュジエは、曽祖父、祖父ともスイスの革命家であったと述べており、自らを先祖の存在になぞらえていたふしがある。妻イヴォンヌ・ガリは南仏出身のジプシー娘であり、このスイスの田舎町出身のル・コルビュジエという人物は間違いなくパリの異端者的存在であった。

 

「アカデミーは嫌いだ」

第一次大戦が勃発した年1917年、30歳のル・コルビュジエはパリに出てくる。帝政時代から変わらない古色蒼然たるパリとボザール派らのアカデミーが牛耳る建築界にあってル・コルビュジエは、都市計画《300万人のための現代都市》(1922)をぶち上げる。後にこれをパリ左岸に埋め込んだ《ヴォアザン計画》(1925)も発表する。

Plan Visin de Paris ヴォアザン計画

(*Plan Vosin de Paris 1925, source:ル・コルビュジエ展図録、毎日新聞社、1996)

 

「土地つきの家は大きな幻想だ」、「政治家はなにも分かっていない。都市計画に無関心どころかそれがなにか知らない」

パリの異端者ル・コルュビュジエは、高速道路と公園と超高層と集合住宅群による都市計画によって目の前のパリを暴力的に否定してみせる。

今見ると、さすがにこれはないだろうとしか思えない計画も、その背景にあった思想は、高層化によって緑と太陽と空間を確保し、ブルジョワジーからパリを市民の手に取り戻そうとする目論見だった。

 

 「住宅は家族の神殿だと思っている。人間の幸せのほとんどがそこにある」、「なぜ住宅に携わろうと思ったのか?問題の解決に近づくことで人々の苦悩を軽減したかった。結局は生きる喜びをもたらす仕事が好きなんだ」

よく見ると書き込まれている住宅は、開放的なリビングルームがあり、吹き抜けの空中庭園があり、テーブルとチェアが置かれた大きなテラスがある住まいだ。約100年後の今日においてさえ、世界中のどの集合住宅でも未だ実現されていない、羨望を禁じえない快適そうな暮らしがイメージされている。

ル・コルビュジエは、古いヨーロッパとパリにあって、住む人のための太陽、空間、緑、快適な住居を主張した社会革命家だった。あるときは暴力性をも辞さずに。

 

<機械時代の申し子にしてデカルト主義者 ル・コルビュジエ >

「現代はギリシャのパンテオンが機械によって実現される」、「機械の出現であらゆるものが変わった。今は機械文明だ」

1909年、工業化社会を象徴する製品T型フォードが生産開始される。ル・コルビュジエが22歳の時だ。ル・コルビュジエは、まぎれもなく19世紀に始まった機械の時代の申し子だ。

ル・コルビュジエは、船舶、自動車、飛行機など機械文明が生み出した機能と造形が合理的に一体化した製品を賞賛した。白い四角い住宅のプロトタイプを提案し、シトロエンにちなんで《シトロアン住宅》(1920-22)と命名している。

機械時代の申し子ル・コルビュジエは、時代を象徴する素材として鋼鉄とコンクリートを選び、都市と建築と住宅の革命を目指した。鋼鉄とコンクリートによる建築は、ル・コルビュジエにとって建築化した機械だった。

VillaLaRoche-Jeanneret ル・コルビジェ ル・コルビュジエ

(*Villa La Roche-Jeanneret 1925, source: ル・コルビュジエ 展図録、毎日新聞社、1996)

 

「美しさは装飾ではなく自然の秩序に宿る」、「調和のとれた自然や数学的な本質に近づくこと。誌的だ」

 機械時代の申し子ル・コルビュジエは、当然ながら、幾何学に憧れ、自然の中に人間の理性を通じた合理や調和や秩序や美を見るカルテジアン(デカルト主義者)だった。

マンハッタンを「毛を逆立て」た「ぼさぼさ頭」と皮肉ったル・コルビュジエは、自らの目指す摩天楼をこう言っている。「ニューヨークに対抗して、私はデカルト好みの合理的な都市を提案する。直線の街であり、水平の街であるパリは、その建築様式を自らの直線において追求するのだ」(『輝ける都市』 1935)。

 

<建築家にして造形芸術家 ル・コルビュジエ > 

 

「建築は光のもとで繰り広げられる巧みで正確で壮麗なヴォリュームの戯れである」

画家志望で、絵画作品や彫刻作品を数多く残しているル・コルビュジエは、建築家として名を成した後も、毎日午前中は必ず絵を描く時間に当てていた。その絵の作風は、ピカソやレジェを連想させる、理性のイメージとは正反対の、奔放で、肉感的で、混沌としたイメージのものだった。ル・コルビュジエは建築家と同時に、あるいは、建築家である前に造形芸術家だった。

「私は視覚的なものに支配される癖がある。デッサンや絵、彫刻や建築は私にとって同じひとの現象なのだ」、「(ロンシャンの礼拝堂で)装飾なしの芸術品を作った」

ピュリスム(純粋主義)と呼ばれた純粋合理形態を求めたような白く直線的な前期の作品(ラ・ロシュ・ジャンヌレ邸やサヴォア邸など)から、後期のマッシブな造形で粗い素材感をあらわにした作品(ロンシャンの礼拝堂やラ・トゥーレットの修道院など)への作風の変貌は、造形芸術家としてのル・コルビュジエが前面に押し出されてきた結果でもある。

ル・コルビュジエ ロンシャンの礼拝堂

(*Chapelle Notre Dame du Haut, Ronchamp 1955, photo by senhormario-Notre Dame du Haunt by Le Corbusier, Ronchamp)

 

※下線部リンク先:

https://www.flickr.com/photos/69836715@N00/3362621610/in/photolist-689jfE-bV19Bh-557mKM-d8jv9Y-adPGjf-adPH5W-24AogCT-adPGnQ-4QyZpU-8apYRp-UULMyo-e8xgnu-QFYuoZ-vVwXJt-cBngU7-adLR1B-wzN6jf-32Edyp-wSV2U6-8q3G8R-kMujZP-cUFDqy-28is3Y-adLPQX-hZavEE-kMuzyD-atse7B-8q79uA-hZaGWL-adPEYA-eiqkgQ-6r7bbQ-6vge37-afjx5s-adLSiM-d84R4J-8q6XDs-22bTN8u-4WSYLe-fju9Gk-U6xijx-998zku-vVvJAg-28ieu9-28itMd-afjx5m-28dQGt-UULMnm-Fknbc-9moip5

「建築家とは造形芸術家であり、詩人であるとともに技術者である」

スキャンダラスな社会革命家、機械時代のデカルト主義者、そのいずれの枠にも納まらない奔放な表現欲求の造形芸術家。そのひと筋縄ではいかないル・コルビュジエの奥深さは人を惹きつけて止まない魅力でもある。

 

<挫折者としての ル・コルビュジエ >

 

「人は人生で挑戦し敗北または勝利を得る。(チャンディガールの《開かれた手》のオブジェは)悲惨な現代社会での楽観主義の象徴さ」

ル・コルビュジエにとって人生の挑戦は勝利でもあり敗北でもあった。世界を代表する巨匠建築家として自他ともに認めるル・コルビュジエの人生が敗北だったとは意外だが、コンペで落選したことをネタに論争を仕掛けて世界に名を売った若き日のジュネーブの国際連盟本部(1927)をはじめ、ソヴィエト・パレス(1931)、NYの国連本部(1947)、パリのユネスコビル(1951)、パリの20世紀美術館など、ル・コルビュジエがかかわった大規模プロジェクト、国際的プロジェクトのほとんどは思った通りにはならず、ル・コルビュジエは深い挫折感を味わっている。あれほど熱心にさまざまな提案をしてきた都市計画にいたっては、晩年にインドのチャンディガールで実現したのみであった。

CouventdeSainteMariedelaTourette インドチャンディガール

(*Couvent de Sainte-Marie de la Tourette 1959, photo by elyullo-La tourette- arq. Le Corbusier)

 

※下線リンク先:

https://www.flickr.com/photos/elyullo/445121707/in/photolist-Fknbc-9moip5-XXpX23-hqK2uu-8q41Pp-vVntAJ-fk9KmD-23FU9CZ-8YY5tX-4QG6un-AtBQ1r-fj23W5-7FVyd-9jetz-6r795E-4QX6U6-97keFD-9rnjKc-C7wqej-fiXZML-adLRxt-iKFdym-cMnLqY-9oJv64-5vVpZ7-4QL1jw-4QKZYE-28i6Z3-adLQd4-4QFNF2-HMEfZf-55bybf-aSxGbM-E1VvKC-eWEfGt-LjEuz-Fkkx5-9jbGU-8q41pt-28e1oM-adLRGM-4QFPdT-fjKtPh-fkkCqd-Fknwv-2G9bLb-ae1KgZ-8q3sMD-aBdNax-cLUznS

 

プロジェクトが実現したか否か以上に、ル・コルビュジエが深い挫折感を味わっていた根源にあったのは、モダニズムの蹉跌だったと思われる。ル・コルビュジエのいう「機械」がもたらしたものは、効率化、画一化を強いる産業社会であり、資本が世界を牛耳る現実だった。

DVDに納められた、パリの右岸一体をガラスの超高層ビル群が覆うシミレーション映像を見て、ル・コルビュジエの都市計画が実現しなかったことの幸せを噛み締めながらも、複雑な思いを抱かざるを得ない。ル・コルビュジエは最後までパリの異端者だったのかもしれない。

「私は今日の人間にとって最も必要なもののために働いた。それは静寂と平和だ」

生前からの理解者だったアンドレ・マルロー(作家、当時文化大臣)は、国葬となったル・コルビュジエの葬儀でこう弔辞を述べた。

「あなたほど辛抱強く侮辱されつづけた人はいなかった」「「住宅は住むための機械」という言葉は彼を理解するためには十分ではない。「住宅は生活の宝石箱、幸せをつくる機械だ」。このもうひとつの言葉こそが彼の真意を表している」「フランスはしばしばあなたを誤解してきた」と。

 

 

参考資料:

『 ル・コルビュジエ 』(DVD3枚組、監督ジャック・バルサック、1987年)

ル・コルビュジエ『輝ける都市』(白石哲雄訳、河出書房新書、2016年)

「 ル・コルビュジエ 展図録」(毎日新聞社、1996年)

「 ル・コルビュジエ  建築・家具・人間・旅の全記録」(エクスナレッジ社、2002年)

 

以上

 

text by 大村哲弥

 

 

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