今年(2019年)は、バウハウスが設立されてからちょうど100年にあたる。ドイツのワイマール(ヴァイマル)のバウハウス校は、1919年にヴァルター・グロピウスを初代校長として開設された。

バウハウスは1925年にデッサウに移り、8年の活動の後、1933年、ミース・ファン・デル・ローエが校長を務めていた時、ナチスの圧力により閉鎖に追い込まる。バウハウスの活動は合計14年余りの短い期間だった。

バウハウス 100周年 アメリカ Bauhaus 100 in America

(Cake in the shape of the Bauhaus building in Dessau, Germany, served on the occasion of Walter Gropius’ 80th birthday, 1963Walter Gropius Papers (BRM 4), Harvard Art Museums Archives, Busch-Reisinger Museum)

 

バウハウスが閉鎖された後、教授陣や教え子などの多くがアメリカに亡命した。ドイツからアメリカに渡った人材が、さまざまな形でバウハウスの教育や活動を引き継いだ。

 

ヴァルター・グロピウスは、亡命先のイギリスからアメリカに渡り、ハーバード大学建築学科教授に就任(1937年)。ハーバードでは、I.M.ペイやフィリップ・ジョンソンらを育てた。

アメリカのバウハウス

(*photo by Lyonel Feininger – Gropi in cap and gown [Walter Gropius],1940s-1950s)

 

ジョゼフ・アルバースは、亡命後ノースカロライナのアートスクール ブラック・マウンテン・カレッジンテンで17年間教鞭をとり、バウハウスの理念による教育を主導し、アルバースの元からは、ロバート・ラウシェンバーグやサイ・トゥオンブリーなどアメリカ現代アートの大御所が輩出している。

 

1937年に亡命したモホリ=ナジ・ラースローは、シカゴにニューバウスを開設。ジョージ・ケペッシュ、ハリー・キャラハンなどの教授陣を揃え、バウハウスの教育理念を実践した。写真家石元泰博はここの出身である。

 

グロピウスをはじめとする多くのバウハウス人材のアメリカ亡命に尽力したのが、後にMOMAの初代館長となったアルフレッド・バーJr.だった。バーは当時、ハーバード大学の博士課程に在籍していた。

 

ハーバード大学美術館のサイトでは、当初、ハーバード大学建築学科長として招く人物として、J.J.P.アウトとミースを加えた3人が候補として挙げれていたことが記されている。アウトは断り、ミース乗り気だったが、グロピウスが同様に候補となっていることを知り、プライドが傷つけられ辞退する。

 

アメリカのバウハウス-bauhaus-in america.jpg

(*photp by Pius Pahl – Mies van der Rohe with Students at the Bauhaus, Dessau)

 

バーはMOMAに建築部門を創設し、その主任にグロピウスの教え子のフィリップ・ジョンソンを据える。そのジョンソンがミースをアメリカに誘い、最終的にミースもアメリカへと渡り、ニューバウハウスを引き継いだイリノイ工科大学建築学科で教鞭をとることになる。

 

グロピウスは、ドイツ時代のバウハウスでの教え子のマルセル・ブロイヤーをハーバード大学のデザイン学科の教授として招聘し、共同でブラック・マウンテン・カレッジの建築計画(未実現)を作っている。また、「近代建築の教科書」と言われているジークフリード・ギーデオンの『空間・時間・建築』は、グロピウスがギーデオンをハーバードの客員教授として招聘した際の講演が元になっている。

 

こうした縁でハーバード大学の美術館のひとつ(ハーバードには3つの美術館がある)ブッシュ・ライジンガー美術館Busch-Reisinger Museumは、ドイツ国外の美術館では、最大のバウハウス・コレクションを有することとなった。

 

創設100年を前にした2016年、ハーバード大学美術館は、この自校に残されたバウハウス関連の資料約32,000点をライブラリーとしてwebでの公開を開始した。こちらから。

https://www.harvardartmuseums.org/tour/the-bauhaus/slide/6450

 

建築、写真、ドローイング、グラフィック、テキスタイルなどの資料や作品、そしてデッサウ時代の希少な画像なども集められている。本稿の画像(最後のもの以外)はそのバウハウス・コレクションからのものである。

アメリカのバウハウス グロピウス 住宅開発

(Ared Arndt and Walter Gropius, Housing Development, Dessau-Törten, exterior color scheme, building type 1, isometric, 1926)

 

 

閑話休題。

 

文化人類学者デヴィッド・グローバーは、「アメリカ社会は根っから官僚制社会である」と主張している(『官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』(酒井隆史訳 以文社 2017年)。

 

アメリカは自由の国であり、バリバリの市場社会ではないか、といぶかる向きもあろうが、グローバーはこう続ける。

 

「この点がなぜ見逃されてきたかというと、アメリカの官僚制的習慣や感性の習慣のほとんどが  ― 衣服から言語、文書やオフィスのデザインにいたるまで ― 民間「私的」セクターから生まれてきたからである」

 

世界銀行やIMFやGATTなど世界を管理する組織を作り、CEO、COO、CFOなど経営の分権化を制度化し、フォーディズム(フォード型大量生産システム)を発明し、契約書社会、訴訟社会、弁護士社会のアメリカ。

 

組織化、制度化、システム化、ルール化、マニュアル化、標準化が好きなアメリカ。今、世界を席巻しているグローバリズムとは、アメリカのルールの世界標準化の別名である。

 

「衣服からデザインにいたるまで」とグローバーは言う。

 

思えば、アメリカ発のファッションの<アイビー>は、大学を舞台に花開き、1950年代のマディソン街あたりの企業の定番となった、見事に教科書化、ルール化、マニュアル化されたファッション・スタイルだった。さらにそれを精緻化し、起源を探求し、磨きをかけ、今や本国ではとっくに失われたアメリカン・トラディションル・スタイルの正統な後継者は、<官僚大国>日本であることは、周知の事実である。

 

アメリカのバウハウス

(Josef Albers, Untitled (Mannequins), 1930)

 

ではデザインに関してはどうか。

 

グローバーは続ける。「「私的」官僚制の草分けはアメリカとドイツである」。そして第二次世界大戦での直接対決を経た結果、その勝者は明らかになったと。

 

スタンリー・キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(1964年)に登場する、アメリカで水爆を開発したドイツ人科学者Dr.ストレンジラブは、感極まって思わず大統領を「総統」と呼んでしまう人物だ。米ソ冷戦時代に強烈な皮肉を突き付けたこの傑作ブラックユーモア作品は、同時に善悪とは無縁に肥大化する「偉大なる」官僚国家アメリカの姿を描いた映画でもある。

 

(Peter Sellers as Dr. Strangelove in Stanley Kubrick’s Film Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb)

 

もちろん、バウハウスとDr.ストレンジラブを同一視はできない。真逆の価値だ。

 

しかしながら、 アメリカのバウハウス を引き継ぐ際の受け皿として、大学や美術館というアメリカの「私的」官僚制の存在が大きな役割を果たしていたことは否めない。

 

モダニズム(バウハウス・スタイル)が、インターナショナル・スタイルとして、あまねく世界に広がっていった背景にも、前掲のアルフレッド・バーやフィリップ・ジョンソンらによる、美術展や書籍を通じたデータ化、様式化、原理化があったこと(詳しくはこちら)ことは、思えば今日でいうグローバリゼーションを予感させるような出来事であった。

 

以上

 

text by 大村哲弥

 

 

 

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