「日本は西洋の モダニズム に先駆けること数百年、室町時代の中期に、既に簡素に美を見出す価値観を生み出していた」(原研哉 『白』 2008)

簡素さを尊ぶ日本の価値観とモダニズム の類似性は、近代を輸入し、モダニズム を輸入した日本にとって、永遠に気になるテーマだ。

外からの目を気にする、というのもやはり、明治期に近代を受け入れ、追いつき追い越せで頑張ってきた日本人が、容易には払拭できない心性といえる。

「桂離宮に示された原理こそ、絶対に現代的であり、また今日のいかなる建築にも完全に妥当するのである」(ブルーノ・タウト 『日本の美の再発見』 1939)

ブルーノ・タウトのこの言葉は、伝統と近代の狭間で悩む昭和初期の建築家を大いに勇気づけたに違いない。

レナード・コーレン著『わびさびを読み解く』(2014)も、外からの目が気になる日本人にとって興味が尽きない書である。

本書は、原著が1994年にアメリカで出版され、90年代に”Wabi-Sabi”ブームを引き起こした書籍の日本語訳だ。

モダニズム わびさびを読み解く1

https://www.amazon.co.jp/Wabi-Sabi-%E3%82%8F%E3%81%B3%E3%81%95%E3%81%B3%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%81%BF%E8%A7%A3%E3%81%8F-Artists-Designers-Philosophers/dp/4861009138/ref=pd_lpo_sbs_14_img_2?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=G1675S99H3XZK6V8EBYV

 

日本人にとって馴染み深いわびさびを、平易に解説する類書が、今までなかった理由を著者はこう解説する。

日本においては「歴史を通じて、わびさびを頭で理解することは、意図的に阻害されてきた」。その背景には、文字や言葉を介さない理解という禅の思想の影響、言葉に置き換えられない価値こそがわびさび独自の価値だとする美的曖昧主義、家元制度による独占の歴史があると。

長らくこうした影響下にあり、感覚的には解るが、うまく言葉にできない日本人に代わり、外国人ならではの立ち位置から果敢に言語化を試みたのが本書だ。そしてその試みは大いに成功している。

モダニズム との対比でその類似点と差異が説明されているところが興味深い。その差異を対比したものを抜粋してみた。

 モダニズム とわびさび

(*モダニズムとわびさびの差異 『わびさびを読み解く』から一部抜粋して作成)

 

例えば「物質性」をめぐる両者の差異。「完璧な物質性」を理想とする モダニズム に対して、わびさびは逆に「完璧な非物質性」が理想だという。わびさびの概念の根底に流れるのは、「非実在性への憧れ」だとも述べられている。物質や実在、つまりモノや実際に「ある」ということは、わびさびを解する上で本質的なポイントだ。

わびさびvsモダニスム わびさびを読み解く2

 

隈研吾が『反オブジェクト』で語った次のような言葉が思い起こされる。

「物質のミニマライゼーションとミニマリズムとは、別の概念である。ミニマリズムとは形態の単純化であり、抽象化であり、そこには物質そのものに対する嫌悪はない。そしてモダニズムの中にはミニマリズムはあっても、ミニマライゼーションは希薄である」(隈研吾 『反オブジェクト』 2000)。

隈研吾は、石や木やセラミックなどの自然素材を使いながら、これまでの建築の常識を覆す寸法や断面を実現することによって、物質性のミニマライズを志向する建築を作ってきた。

「物質は時間の凝集であり、物質の中に時間が内蔵され、壁(ひだ)のように折り畳まれている」、素材の「ヴォリュームを殺ぎ落とす事によって、物質が消去され、時間が露出されてゆく」。隈研吾は、自らの手法の意味を、ライプニッツとドゥルーズによる物質の定義を援用してこう説明する。

物質性の消去は、隈研吾に限らず、モダンデザイン の行き詰まりとその後のポストモダンによる表層の宴を経て、日本の建築デザインに共通した戦略でもあった。それは、本書に従えば、わびさびの価値観によるモダニズムの限界を乗り越える試みであるということができるだろう。

モダニズム の隘路にはまり、完璧な物質性を求めて止まない近代以降の主体。永遠の新しさへの願望、効率的な都市計画や土地利用、ユニバーサルな空間、立派な建物などは、我々が求めてきた完璧な物質性の産物だ。

物質性を極限までミニマライズしたとしても、、物質としての建築、実在としての建築は依然として残る。物質性の消去という戦略も所詮、モダニズムの手の内ということか。

しかしながら、完璧な非物質性が存在しないように、完璧な物質性も存在しない。それらはともに「理想」であり「憧れ」の姿なのだ。

「わびさびは、知覚とそれに対する態度が心の中で溶け合い、像を結んだ結果である」(同書)。

わびさびは、オブジェクト(物)よりも、むしろサブジェクト(主体)側の問題といえる。オブジェクトレベルでの物質性の消去は、主体の気づきへの働きかけなのだ。主体が変われば、世界は変わる。わびさびはそう教える。

今日、わびさびが重要な理由を、レナード・コーレンは以下のように説明する。

「無限大の繊細さ」を表現するわびさびは、「0」と「1」に還元するデジタルでは表現できない。デジタルにおける「0」は不毛な空だが、わびさびの空は「存在への潜在的可能性を孕んだ」概念であると。

わびさびは、「「実際の生活」の中に存在しているはずの微妙さ、精妙さを理解し、察知する能力であり、これを失ってしまうと「私たちの世界が縮小してしまう」と危惧を表明する。

わびさびには、物質性に偏向する モダニズム の行き詰まりから、われわれを解き放ってくれるヒントが詰まっている。

最後に本書の著者レナード・コーレン氏についての余談を。

同氏はUCLAで建築を学んだ後、70年代にアメリカ西海岸で『WETマガジン』というカウンター・カルチャーの雑誌を創刊した日本通のアメリカ人だそうだ。

確証が取れないので、おそらくと言い添えておくが、著者は80年代前半に日本の雑誌BRUTUSで「西海岸共和国だより」というコラムを連載していた同姓同名の人物だと思われる。西海岸ではコカインを日本の茶道のしきたりで吸引するコカイン茶会が開かれているなど、ほんとか嘘かわからない、しかしながら、そこに漂う、60年代のカウンター・カルチャーの残り香を感じさせる西海岸の独特の雰囲気が印象的だった。

本書が関心をよせる対象からそう推察して間違いなさそうだ。

以上

Text by 大村哲弥

 

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