2001年宇宙の旅 から半世紀の今を見据えるアート展  ~『1/2 Century Later. by THE EUGENE Studio

寒川裕人(Eugene Kangawa)が率いるTHE EUGENE Studio(ザ・ユージーン・スタジオ)は、現代美術の領域を社会のフィールドに拡張させながら、アクチュアルなテーマをさまざまなフォームで展開している、新しいアーティスト像として注目を集めている企業だ。

例えば、”Agricultural Revolution3.0(邦題:農業革命3.0と題されたプロジェクトでは、鶴岡市と共同で、国内外の研究機関の協力のもと、リサーチ、インスタレーション、カンファレンスなどを実施(2012年)、”After the War”という作品では「今日」と同じ日付で世界のどこかで起っていた戦争のフッテージ(映像)がwebサイト上で上映される。そのコンセプチャルな発想はどこかマルセル・デュシャンを思わせ、そのアクチュアルなスタンスはヨーゼフ・ボイスを髣髴とさせる。

THE EUGENE Studioは自らを、「ポスト資本主義の価値観を創造し、世界の新たな見方を提示する」ことを目指す「特殊なシンクタンク」と名乗っている(宮津大輔『アート×テクノロジー』の時代、光文社新書、2017年)。

過去の戦争のフッテージを集積させた作品が”After the War”と名づけられているように、破壊に終わらずにその後の再生のイメージが用意されているところにTHE EUGENE Studioのいう「世界の新たな見方」の提示というスタンスを感じることができる。

今回の”Beyond good and evil, make way toward the waste land”(邦題:『善悪の荒野』)と名づけられたインスタレーションの場合は、映画『 2001年宇宙の旅 』ではボーマン船長の視線の先(モノリスがあった場所の先)に位置するところに置かれた”White Painting”という作品に破壊からの再生のイメージが託されている。

なにも記されていないようにみえる真っ白なキャンバスは、アメリカ、メキシコ、台湾などの街頭に置かれ、街ゆく人100人程度に接吻をしてもらったキャンバスのひとつだ。その模様を写した動画がiPhoneで再生されている。

 

(*White Painting in Mexico, THE EUGENE Studio 『1/2 Century Later.』展 配布資料から)

 

普通の人々による国を超えた小さな共同作業、イコンへの接吻など祈りという行為への連想、キャンバスにかすかに残された唾液の中のヒトのDNA。現代美術のフィールドでいえば、ロバート・ラウシェンバーグの作品”White Paintings”への応答が思い起こされるかもしれない。

はたしてこれが『善悪の荒野』に対峙する再生のイメージとして、ふさわしいかどうかはわからない。

作者の意図するところを超えて、インスタレーション『善悪の荒野』は、まったく別のことを考えさせてくれる。

『善悪の荒野』の破壊された部屋は、観る者に自ずと戦争や災害による破壊を連想させる。科学やテクノロジーの進歩によっても克服できていない人間の悪意の連鎖(ex.戦争やテロによる破壊)や人間を超えた自然の存在(ex.3.11などの自然災害よる破壊)などのイメージだ。

一方で、朽ち果てたルイ王朝スタイルの部屋が一面白い灰で覆われた様子は、まがまがしいというよりは、むしろ穏やかで静謐さをともなったイメージを放っており、それは18世紀からゆっくりと徐々に廃墟化しながら時の埃を堆積させて今に至っている空間のようにも見える。

 

2001年宇宙の旅

 

破壊と同時にそこにあるのは、近代が要請してきた、より前へ、より新しく、より純粋にという価値観へのアンチテーゼだ。

 

2001年宇宙の旅

 

朽ち果てることすら善い、あるいは朽ち果てるからこそ善い、というおよそ近代の科学やテクノロジーにはなかった、コンピューターやAIには備わっていない、新しさの強迫観念と息苦しさから解放された価値値、とでもいおうか。

この美しき廃墟そのものが、破壊と再生の両義的なイメージを語っているのではないか。

それは一見、ネガティブなことですら善いという、危うさを伴いながらも、より大きな自由と包容力と多様性とを持った世界のイメージだ。英題の意味する「善悪を超えて荒野に向かって進め」という言葉が含意する意味は、きっとそうしたことに違いない(*1)。

作品は時として作者の意図を超えて、時代の危機やそれを乗り越えるヒントを可視可する。芸術だけが唯一持つ価値であり、アートを観る醍醐味だ。

寒川裕人はこうも発言している。「「未来は新しい」という志向は難しくなってくると思います。抜本的な新しさを求め続けるのは危険だと。なぜなら過激になっていく可能性を秘めているからです。アートはそれを抑える力、あるいは美しく過激になることが可能だと思います。」(美術手手帖website Eugene Kangawa×長谷川新THE EUGENE Studioが見せる1968年からの「半世紀」

 

近い将来、人間がAIにとって代わられるのではないかという疑念やAIに支配される未来像など、いわゆるシンギュラリティ(*2)への懸念が、最近、急速に高まっているのも、AIという存在が具体的に現前化してくるなかで、単線的に過激化(純粋化)する科学とテクノロジーへの不安の現れといえる。

新しさより廃墟を、フラットさよりも荒野を。この美しき廃墟はそう語りかけている。

1968年、パリ五月革命に端を発し、世界中で既存の価値や文化や体制への異議申し立てが始まった。1968年はそうした年としても歴史に刻まれている。

 

以上

text by 大村哲也

 

(*1)”Beyond good and evil”はフリードリッヒ・ニーチェの『善悪の彼岸』の英語題名。ニーチェはそれまでの哲学の転換を試みた哲学者だ。また”waste land”はT.S.エリオットの『荒地』の英語原題。『荒地』では荒廃と希望が両義的なイメージで語られる。

(*2)「「シンギュラリティ」とは一言でいえば、開発者である人類の知能を越えるAI(人工知能)が2045年には登場し、それ以降、AI自らが開発・進化することで、人類に代わってあらゆる分野で中心的な役割を担っていく状態を指しています」(宮津大輔『アート×テクノロジーの時代』、光文社新書、2017年)。

 

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